由来

通称「山田のお地蔵さま」と言われる増福禅院と秘佛六地蔵尊の由来

天文二十年(1551年)といえば、当時我が国は戦国時代の中頃で、この宗像地方は中国の雄、大内義隆公の勢力下にあった。従ってこの地方の時の領主、宗像大宮司家第七十八第氏雄卿は大内氏の随臣として長州黒川(山口県)に土地を与えられて某所に住んで居られた。折柄その歳の九月朔日、さしもの勢力を誇っていた大内義隆公も逆臣陶晴賢(すえはるたか)の為、長州深川の大寧寺に攻られ戦い敗れ自害された。その時氏雄卿(菊姫様の夫)もまた、大内氏の為奮戦されたが不幸にも遂に戦しされたのである。

本国筑前宗像の地には正室菊姫がおられ、母堂の山田局とともにこの山田の里の館に住んで居られたが、突然の主君の戦死を嘆き悲しむいとまもなく、同月十二日長州表の陶晴賢よりさし向けられた御父君正氏卿の妾腹の子なべ寿丸(後の七十九大氏貞郷)が、突然宗像に乗込み白山城に入城してきたのである。言うまでもなく本腹の菊姫御前をしりぞけて、領地六万石を横領せんとする晴賢の策略である。

宗像家普代恩顧の家臣のなかでなべ寿丸(氏貞)方に加担する者も多く、天文二十三年(1554年)三月二十三日「月侍の夜」、寝返りした石松但馬守は腹心の野中勘解由、嶺玄藩等を従えて山田の御殿に乗り込み、菊姫御前を始め山田局をも刺し殺し、また主君の為に薙刀を振るって立ち向かった侍女の花尾の島、三日月、小夜、小小将の四人も討ち果たしてしまったのである。時に菊姫十八歳、母堂山田局は五十三歳であった。

今日、菊姫が愛用されていた、古鏡、貝合せなどが増福院に秘蔵されているが、それらは今なお見る人の涙を誘うのである。

その後この六人の婦女子の怨霊の崇りものすごく、野中勘解由、嶺玄蕃等を手始めにこの惨劇に加担した者はむろん、その後一族ことごとく変死あるいは怪死するなど、宗像一円は「九州一の怪談」と言われるほどの大惨劇を演ずるにいたったのである。

氏貞卿とその母照葉の方はこの怨霊を鎮めんと、天台の秘法を修したり大法会を催したりしたがいっこうに効験なく、遂にここ山田の地に宗像大宮司家の神護寺として在った庵寺に、六霊を合祀して六地蔵を刻み、増福院と号して六女の霊を祀るようになって、ようやくさしものの変事も収まったと言い伝えられている。

菊姫始め六女の呪いが烈しかっただけに、一度六道能化の地蔵尊として祀られるや、衆生をお救いくださるお力も強く、特に親の子に対する願はかならず聞きとどけられると言い伝えられ、安産子育て、厄除けや子供の息災、諸病の平癒など、霊験あらたかにおわしますので今日なお参詣する人の跡が絶えないのである。

当院檀徒 福岡市南区 田中正久氏文章

2007/09/01

増福院絵巻物より

2007/09/01

足利尊氏公座禅の岩

2007/09/01

安産腹帯